西暦と元号のどちらがよく使われているか、統計データがあるといいのですが、管見では知りません。そこで、思いつくままに探ってみることにしました。まず脳裏に浮かぶのは60年安保と70年安保です。アメリカとの安全保障条約ですから、元号をつかうわけにはいかなかったのでしょう。他方、「昭和30年代」とか「昭和一桁」という便利な時代区分が流行しました。「昭和元禄」という言いえて妙な、年号を重ねた言いまわしも登場しました。
学術的な辞典や事典の類はどうでしょう。西暦の記述が少ない民俗学の場合を見てみましょう。柳田国男監修の『民俗学辞典』(東京堂出版)は昭和26年(1951年)の刊行です。縦組みで、参考文献は「昭24」のようにすべて元号で表記されていました。本文中に特定の年が元号で出てくることもまれで、西暦は見あたりません。これに対し、大塚民俗学会編『日本民俗事典』(弘文堂)は1971年(昭和46年)の刊行で、横組みとなっています。年号は、日本年号を掲げ、西暦年号を( )内に付しています。ただし、その多くは、元禄3年(1690)とか文政期(1818~30)のように、明治以前の年号です。日本語の参考文献には日本年号が「昭24」のように示されていますが、それは明治以降に限られています。ところが、1999年(平成11年)の『日本民俗大辞典』(吉川弘文館)になると、参考文献が西暦となります。しかも縦組みの辞典ですから、西暦は漢数字です。文中の表記も一八二二年(文政五)のようになっています。
民俗学は歴史学とは異なり、特定の年月日にあまり左右されない記述に特徴があります。しかも、日本民俗学ですから、西暦に頼ることはほとんどありません。参考文献にしても欧文のものはごくわずかです。にもかかわらず、平成年間には西暦優先に移行しているのです。
次に、もっと大衆的な大手新聞に注目してみましょう。戦時中、新聞の年月日は元号だけでしたが、戦後、元号と西暦が両方つかわれるようになりました。ただし、西暦は括弧に入っていました。たとえば、大阪万博の開幕を報じた朝日新聞には「昭和45年(1970年)3月14日(土曜日)」とありました。しかし、1970年代の後半に西暦と元号のあつかいが逆転します。朝日新聞がいちばん早く、1976年1月1日から「西暦(元号)」となりました。理由は明示されていないようです。2年遅れて毎日新聞も西暦が先となりました。そこでは国際化に対応しての措置であることが明記されました。それから10年遅れて読売新聞が1988年1月1日に西暦優先へと舵を切りました。日本経済新聞は1988年9月23日から朝日、毎日、読売に足並みをそろえましたが、ちょうど昭和天皇の重体報道と重なる時期でした。ちなみに、産経新聞はずっと「元号(西暦)」を堅持しています。
どうやら1970年代に西暦と元号をめぐる攻防の山があったようです。役所の文書はいまでも元号が優先されますが、新聞の大勢は西暦優位となっていきました。つまり官と民の乖離が広がっていったのです。その背景として、二つの点を指摘しておきたいとおもいます。ひとつは、東京オリンピックから大阪万博とつづく流れのなかで国際化に否応なく対応せざるをえなくなったことです。欧米諸国を主流とする文明が西暦を採用している以上、現実的にはそれに会わせる必要がありました。デ・ファクト・スタンダード(事実上の基準)としての西暦です。これに対し、元号の継続的使用に危機感をもつ人たちが声をあげました。それは元号に法的根拠をもとめる運動となり、1979年に元号法の成立として結実しました。これがデ・ジュリ・スタンダード(法律上の基準)としての元号です。
大阪万博のテーマソングは「1970年のこんにちは」と歌われる「世界の国からこんにちは」でした。「昭和45年」は国際的イベントでは影を潜めざるをえませんでした。EXPO’70という表記も目立ちました。70年安保だけでなく70年万博もまた西暦に加勢する結果となりました。