こよみの学校

第152回 1963年のカレンダー―室津民俗館の展示から

兵庫県「室津民俗館」

兵庫県室津(むろつ)、といってもピンとくる人は関西でも少ないことでしょう。室津は播磨灘(はりまなだ)に面し、室津湾とよばれる「室のように静かな湾」の奥まったところにある港町です。地理的には姫路と赤穂の中間に位置し、行政的にはたつの市に属しています。伝承では神武天皇の東征の際につくられた港であり、奈良時代の高僧行基が整備した「摂播五泊」の一つとされています。摂播(せっぱん)とは摂津国と播磨国のことです。泊は「とまり」とも読み、船泊(ふなどまり)を意味しています。『播磨国風土記』には「この泊、風を防ぐこと室(むろ)のごとし、故(ゆえに)、因(よ)りて名をなす」と記されています。

室津は歴史的には海上交通と陸上交通の要衝(ようしょう)として栄えました。史実として有名なのは天正(少年)遣欧使節がローマ法王に謁見(えっけん)して帰国後、秀吉の謁見を待つため、ここに約二カ月滞在したことがひとつ。もうひとつは、西国の諸大名が参勤交代時、また朝鮮通信使やオランダ商館長の一行が江戸参府の際、室津に寄港したことです。

昭和の暮らしとカレンダー

室津民俗館はこうした歴史を展示する一方、漁具や家具などの民具もならべています。建物自体は「魚屋」という屋号をもつ豪商の館ですが、最近、そこを訪ねる機会がありました。わたしにとって、とくに目を引いたのは一枚のカレンダーでした。それは1963年のもので、柱にかかっていました。その下には鏡台があり、両脇にはテレビと整理ダンスが置かれていました。テレビの上にはラジオがあり、タンスの上には人形や時計が並んでいました。古い寒暖計も隅に立てかけられていました。その部屋はもちろん和室で、丸いちゃぶ台とこたつもありました。これはいかにも昭和30年代の生活を再現するものであり、カレンダーが雄弁にその時代の証人となっていました。

カレンダーは2カ月を1頁におさめたルーズリーフ型のもので、上半分はバラの作品で知られる中川一政(1893-1991)らの絵画が採用されていました。名付けて「タカシマヤ バラのカレンダー」。宣伝文には次のように書かれていました。

「バラのムードのタカシマヤがご愛顧いただいて幾年月・・・・・・新しい年をさらに美しくさらに香り高くと このバラのカレンダーを創りました ひと月ひと月 皆さまどうぞご愛用くださいませ」

大阪高島屋がおそらく上客用に進呈したものと思われます。月名も曜日もすべて英語。年は西暦で、昭和38年の文字列はみあたりません。絵画も洋画で、ルーズリーフのしゃれた判型です。昭和30年代の暮らしのなかに、洋風のカレンダーが違和感なくおさまっていました。

1963年、時代と暮らしの変化

1963年と言えば東京オリンピックの前年、名神高速道路が名古屋・西宮間で開通した年です。所得倍増計画が1960年に打ち出され、高度成長に邁進していた時代でした。とくに家電製品の普及はめざましく、テレビ・電気洗濯機・電気冷蔵庫が「三種の神器」としてもてはやされました。室津民俗館にも神器の一つであるテレビが鎮座しています。

他方、茶器のセットと魔法瓶が乗っているちゃぶ台はそろそろ消えかけていく運命にありました。まもなくダイニング・キッチンが主流となり、テーブルが主役となっていきます。朝食もご飯からパンに次第に変化していきました。

映画「ALWAYS三丁目の夕日」(2005)は昭和33年(1958年)の東京下町を舞台とし、空前のヒットとなった作品です。日本アカデミー賞をほぼ総なめにし、「昭和30年代ブーム」をひきおこしました。室津民俗館の一室も「昭和30年代」を想起させる展示でしたが、1963年のカレンダーには昭和のかけらもありませんでした。ミスマッチと言えばそれまでですが、見方によっては、元号から西暦に変わってゆく兆候を如実に示していたのかもしれません。当時のハイカラなデパート「タカシマヤ」はその先鞭をつけていたのでしょう。西暦は元号を押しのけて、津々浦々に波及していったと考えられます。

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