こよみの学校

第149回 檀紀と主体年号―朝鮮半島の紀年法

1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し敗戦国となりました。この日は「終戦記念日」ですが、法的に規定された特別の日ではありません。他方、韓国や台湾では「光復節」と称する祝日です。「光復」とは国権の回復を意味します。北朝鮮でも「祖国解放の日」として祝日になっています。要するに、日本の植民地的支配から解放された記念日です。ただし、中国では祝日に指定されていません。

皇紀より長い紀年法「檀紀」

1946年の朝鮮のカレンダー(韓国の国立民俗博物館所蔵、イラスト参照)をみると、西紀(1946)と干支(丙戌)とならんで4279の数字が目に入ってきます。これは檀紀(だんき)です。檀君という朝鮮半島を支配した伝説上の王の即位から数えた年数です。檀君は天神桓因の子である桓雄と雌熊との間に生まれた子で、「檀国の君主」を意味し、氏名は王倹とされています(13世紀頃に成立した『三国遺事』による)。檀紀は19世紀末、檀君を朝鮮民族の祖とあがめる大倧教(たいそうきょう)などの宗教運動のなかで脚光を浴び、独立運動にも影響をあたえました。檀紀は高い民族的アイデンティティを主張する人たちを中心に使用されるようになりました。しかし1910年、李氏朝鮮が滅び、日韓併合となると、檀紀は姿を消し、かわって皇紀(神武天皇即位紀元。檀紀より1673年短い)や元号(明治、大正、昭和)が登場してきます。そして、日本の敗戦で皇紀と元号が消滅し、ふたたび檀紀が記載されるようになったのです。絵には光復のよろこびが画面いっぱいに表現されています。民族衣装をまとった男女3名が太極旗を両手にかかげ、祝賀デモにくりだしている光景です。

紀年法の移り変わり

1948年、南朝鮮に大韓民国が成立すると檀紀が正式の紀年法となりました。それは1961年まで続きましたが、それ以降は国際化に対応するため公的には西暦に取って代わられました。とはいえ、それで檀紀が雲散霧消したわけではなく、大倧教はもとより、冊子の『大韓民暦』などに命脈を保っています。それどころか、檀君をまつる開天節(10月3日)も祝日のあつかいをうけています。他方、北朝鮮では1948年の朝鮮民主主義人民共和国の成立とともに西暦が正式に採用されました。檀紀は使われていません。

1950年から53年にかけての朝鮮戦争の結果、朝鮮半島は北緯38度線をはさんで南北に分断されました。『大韓民暦』には西紀と檀紀に加え大韓民国何年という建国を紀元とする紀年法が記載されています。ただし、名目的なものにとどまり、檀紀ほどの影響力はありません。それに対し、北朝鮮では1997年、突然、暦法上にあらたな紀年法が加えられました。主体(チュチェ)と銘打った紀年法です。

新しい紀年法「主体年号」

一般に「主体年号」として知られ、建国の指導者で国家主席でもあった金日成の生誕年である1912年を紀元とする紀年法です。金日成が唱えた朝鮮労働党ならびに北朝鮮の指導方針が「主体思想」 であり、初期には政治の自主、経済の自立、国防の自衛が強調されました。後には、首領の指導に力点が移り、金日成の個人崇拝や金正日の独裁体制を正当化する思想に変質したとされています。この紀年法は、しかしながら、金日成の存命中に決められたのではなく、没後3回忌の1997年から使用されはじめました。

「年号」とは称しても、王権の代始改元のようにリセットされるものではありません。祥瑞や災厄による改元もなければ、辛酉革命や甲子革令のような説にも依拠していません。キリスト生誕紀元とされる西暦と同様、一方向的に進行するものです。ただし、紀元前のような用法はありません。

朝鮮半島における紀年法には檀紀と主体年号に象徴されるような南北の相違がみられます。歴史的には日本の皇紀が元号とともに影を落としました。そうした関係をさらに深く広く知るためには中国や台湾のこともとりあげる必要があるでしょう。それは次回の課題といたします。

【参考文献】
金セッピョル「北朝鮮」「大韓民国」中牧弘允編『世界の暦文化事典』丸善出版、2017年。
中牧弘允「メディアとしての暦―朝鮮・台湾・インドネシアにおける元号と皇紀」『関西学院大学社会学部紀要』130号、2019年。

 

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