わたしの勤務する吹田市立博物館(以下、吹博)は文化財保護課に属しています。同課は埋蔵文化財の発掘や古民家の調査なども担当しており、資料の一部は常設展示にも使用されています。
その吹田で最近、わたしの目をひきつけてやまない資料が発掘されました。それは底部外面に「大寶」(以下、大宝)と墨で書かれた土器の坏(つき)です。いわゆる墨書土器ですが、「大宝」は吉祥句で、年号とかかわりがあるのではないかと担当の学芸員はみています。
というのも、日本の公年号は「大化」(645年)にはじまりますが、その後は断続的に使用されるだけで、本格的には「大宝」をもって定着していったからです。大宝は701年からですが、大宝律令が発布されたことで知られています。その「儀制令」には年号を用いて公文を記すよう定められています。つまり、公文書には年号を必ず記すことが法制化されたのです。
その年号は日本独自のものでした。中国の周辺諸国では中国の年号をそのまま使用することがおおく、独自の年号を立てても公年号として認められることはありませんでした。「大化」や「白雉(はくち)」「朱鳥(しゅちょう)」も例外ではなかったようです。ようやく持統天皇の代になり、日本と唐の関係が改善され、唐にならった律令体制がととのい、文武天皇の3年に「大宝」の改元となったのです。
「大宝」の年号は『続日本紀(しょくにほんぎ)』巻2の冒頭にでてきます。改元の理由は対馬から金が献上されたからです(後に詐欺と判明)。そのため建元がおこなわれ、大きな宝と名づけられました。「大宝」の年号は藤原京出土の木簡や金石文(きんせきぶん)の墓誌銘などにもみられ、令の施行がゆきわたっていたことが跡づけられています。
さて、吹田出土の「大宝」の坏は中ノ坪遺跡で発掘されました。JR岸辺駅の東側で大阪学院大学に近いところです。ここからは縄文土器や弥生土器の破片もみつかっています。また近くの遺跡からは須恵器(すえき)製作のために粘土をとったあとや後世の条里制のあとも発見されています。ただし、「大宝」の墨書土器は渡来人がもたらした須恵器ではなく、弥生土器の流れをくむ土師器(はじき)です。須恵器よりも吸水性が高い土師器のほうが墨書にはむいていて、習書用につかわれることも多いといわれています。近くの明和池遺跡からは人面土器の壺も出土していて、興味がひかれます。
一般に墨書土器は木簡や漆紙文書などにくらべると文字数が少なく、文章にもなっていないため、歴史や社会を知るためにはあまり重要視されてきませんでした。とはいえ、貴重な情報をもたらしてくれることもあり、年号とかかわる本資料も注目に値します。また、干支を連想させるもの、寺名や家名とおぼしきものも吹田の他の遺跡から発掘されています。
鹿児島県における墨書土器の調査によると、吉凶の占いや埋葬などの祭祀と関連することが報告されています。一方では陰陽道などの影響を受けて招福除災のために用いられ、他方では臓骨器とともに出土する例も多数みられます。また同報告書では、墨書土器と公的施設との関連、とくに食器管理をおこなう掘立柱の建物との強い結びつきが指摘されています。「春」や「秋」など季節を想起させるものもあります。
墨書土器は奈良・平安時代、全国でさかんにつくられましたが、10世紀を越えると姿を消していきました。衰退の理由はよくわかっていません。
【参考文献】
『中ノ坪遺跡』(大阪府文化財センター調査報告書)、2017年。
坂本佳代子、岩澤和徳、松田朝由「墨書土器の性格―鹿児島県を例として 『縄文の森から』第2号、鹿児島県埋蔵文化財センター、2004年。