七曜(日・月・火・水・木・金・土)を一覧表にしたものが七曜表です。一般のカレンダーでは格子状の枠に左から右に日曜はじまり・土曜おわりの曜日がならび、日付のアラビア数字を曜日に合わせて順番に配列しています。日本ではもっぱら七曜表のことをカレンダーと呼ぶようになりました。西洋風の壁掛けの暦をカレンダーと総称したと言っても過言ではありません。では西洋において七曜表がポピュラーになったのはいつ頃からでしょうか。おそらく19世紀末から20世紀にかけてのことでしょう。しかし、歴史はもっと古く、1635年のイギリスの懐中時計の蓋には永久カレンダーと称する一種の七曜表がすでに刻まれていました (Lippincott: 69)。
七曜が日本に伝来したのは806年に空海が唐からもたらした『宿曜経』によるとされています(本コラム第135回「宿曜経―インドの密教占星術」参照)。平安貴族が暦に書き込んだ日記にも七曜星の吉凶が載っていました(本コラム第133回「御堂関白記―具注暦の日記」参照)。そして江戸時代の伊勢暦にも七曜は記されていました。とはいえ、今日の七曜表とは似ても似つかぬものでした。たとえば文政10年(1827)の暦の場合、正月大(大の月)の欄には「参宿値月 柳宿土曜値朔日」とのみ書かれていました。これが意味するところは、月の二十八宿は参宿であり、(正月)朔日の二十八宿は柳宿に当っていて、七曜は土曜である、ということです。つまり、七曜に限って言えば、月の朔日の七曜だけが載っている形式だったのです。
折本の伊勢暦は明治5年まで使われていました。明治6年に太陽暦に改暦され、折暦から和綴じの暦に変わりましたが、レイアウトは伊勢暦と同じく縦書きの列に右から左に1日から順に配列されるのが普通でした。そして日付の下には、日曜だけの場合もありましたが、たいがいは七曜の曜日が記されるようになりました。それは明治16年に伊勢の神宮司庁が本暦・略本暦という官暦を発行するようになっても変わりませんでした。
ただし、日曜表(日曜日)という欄が戦前の和綴じ暦の暦首に登場しました。1月の日曜日は何日と何日と何日という具合に12月まで一覧できるものでした。これは本暦にはなく、略本暦や引札暦に見られ、国立天文台の岡田芳朗文庫では明治10年(1877)の引札暦から始まっています。一般官庁の公務員が日曜を休日に、土曜を半ドンにするようになったのは明治9年(1876)の4月からです。日曜表はこれに対応する新機軸と考えられます。
日曜表に呼応するかのように七曜表も出現しました。といっても、暦の発行と流通を独占していた頒暦商社や神宮司庁の暦にではありません。その一例を、はからずも勤務先の吹田市立博物館に寄託された橋本家文書のなかに発見しました。それは1枚のペラペラな紙に印刷された「明治十二年七曜表」であり、「大阪府第五課」が作成したものです。12ヵ月分の格子状の枠は横三段、縦四段で、最上段には右から一月、二月、三月とあり、最下段は右から十月、十一月、十二月で、曜日と日付がそれぞれ漢字と漢数字で印刷されていました。この大阪府の七曜表は一般官庁の週日制導入から3年目に当たり、意外に貴重な資料と言えるかもしれません(注)。
格子状の七曜表を掲載する販促用カレンダーが出まわるのは明治末から大正にかけての頃からです。岡田文庫のカレンダーでは明治44年のものが最古です。そしてレイアウトも変化していきました。欧米流の横組みやアラビア数字が増えていきます。また、朔日の曜日を行や列の最初とするものが出現しました。これは謎です。日曜日ではなく、なぜ朔日の曜日が基準になるのか、その理由をわたしはまだつかみかねています。いまではおなじみの横組み、日曜はじまり、アラビア数字という組み合わせは戦後になってようやく主流となりました。
【注】
本資料は吹田市立博物館の春季特別展「大坂の陣と吹田村―橋本家文書展」(2023年4月29日(土)~6月4日(日))において展示する予定です。
【参考文献】
Lippincott, Kristen (ed.) 1999 The Story of Time, London: Merrel Holberton. (英国海洋博物館の特別展示用図録)
岡田芳朗 1994 『明治改暦―「時」の文明開化』大修館書店、269-274頁。