キリスト(イエスに与えられた救世主としての敬称)の生誕祭は言うまでもなくクリスマスです。マタイ伝にはイエスはベツレヘムで生まれ、東方の賢者たちが一つの星に導かれて黄金と乳香と没薬を届けたとあります。またルカ伝には、ヨセフとマリアが人口調査のためエルサレムに向かう途中、ベツレヘムでマリアが男児を出産し、布にくるんで飼葉桶に寝かせたと記されています。そのことを天使から知らされた羊飼いたちはすぐさま幼子のもとに行きました。他方、聖書の外典である「ヤコブの手紙」によると、マリアは洞窟で出産し、その上空にはひときわ明るく輝く星があった、と書かれています。しかし、聖書にも外典にもイエスの誕生日については何の言及もありません。
謎に満ちたイエスの誕生ですが、初期の教会では2世紀以降、1月6日をキリストの神性が示された日と定め、公現祭(主の顕現の日)をおこなっていました。他方、エジプトのキリスト教徒はこの日をイエスがバプテスマのヨハネから洗礼を受けた記念日としていました。いずれにしても、12月25日がイエスの誕生日とされていたわけではありません。その日がキリストの誕生日となったのは、313年にキリスト教がローマ帝国内で公認されてからのことです。ローマ教皇ユリウス一世(在位337-352)の時に12月25日に祝うよう布告が出されました。また380年の記録によると、「キリスト教徒たちがこの(不滅の太陽の)祝祭に強く心を惹かれていることをかんがみ、教会の博士たちは・・・キリスト降誕の日をその日に祝うと定める」ことになったと記されています。そして4世紀末には公現祭よりもクリスマスのほうが盛んになったようです。当時ローマ帝国内で流行していたイラン起源の太陽神信仰の影響を受け、冬至を境に光を増していく太陽に心を寄せていたのでしょうか。
カトリック教会にはイエスの生誕場面を飾る習慣があります。イタリア語ではプレゼピオ(プレゼッペ)とよばれています。これは1223年、アッシジの聖フランシスコが文字の読めない人のためにグレッチョの洞窟に馬小屋、飼葉桶、羊、ロバなど実物大の模型をつくって飾ったことに端を発しています。16世紀中頃にはイタリア各地から、スペインやチロル地方などにも広まり、17世紀後半にはナポリの王侯貴族たちの高尚な趣味として発展しました。イタリアを旅したドイツの文豪ゲーテも1787年にそれを見ています。18世紀後半からは家庭用生誕シーンも普及しはじめ、19世紀になるとプロテスタントの家庭でもツリーの下に生誕シーンを置くことが一般化しました。ちなみに、生誕シーンをつくる場合は、アドベント(待降節)の期間中、段階的に人形を加えていき、12月24日のイブにイエスが“誕生”するという仕来りになっています。
カトリックの生誕シーンに対抗して、宗教改革者のマルチン・ルターは子どものキリスト(クリストキント)とともにクリスマスツリーを飾るようすすめました。しかし、今ではカトリックの総本山であるバチカンのサンピエトロ広場にもイエスの生誕シーンとクリスマスツリーが仲良く並んでいます。ちなみに2019年12月1日、ローマ教皇は広場の飾り付けに先立ちグレッチョを訪れ、洞窟の祭壇でプレゼピオの意味と価値をしるした書簡に署名をしました。
カトリックの教会暦では待降節にひきつづき降誕節が祝われ、1月6日の公現祭まで典礼がつづきます。他方、ロシア正教のようにユリウス暦を教会行事に使うところでは、1月7日(ユリウス暦12月25日)がイエスの誕生日です。そしてイエスがヨルダン川で受けたとされる洗礼を祝うのが1月19日(神現祭)となります。しかし、旧ソ連時代、クリスマスは祝日ではなくなり、その代わりにヨールカ(マツ科の常緑樹)のツリーを飾る子ども向けの新年祭をはじめました。そこに登場するのがマロース爺さんであり、雪娘のスネグーロチカです。ふたりはもともと別個の昔話の登場人物でしたが、いまでは祖父と孫娘の関係になっています。もっともマロース爺さんはロシア版のサンタクロースとも言われ、小アジア(今のトルコ)のミラの司教だったとされる聖ニコラウスの伝承を引き継いでいますが、イエスとは関係がありません。
【参考文献】
ジュディス・フランダース (伊藤はるみ訳)2018『クリスマスの歴史ー祝祭誕生の謎を解く』原書房。