伊勢暦の暦首のほぼ中央に陣取っているのが金神(こんじん)です。文政10年の伊勢暦の場合、その両脇にはルビのように「とらう」(寅卯)と「いぬい」(戌亥)の方角が添えられています。同年の暦で金神の枠の上段には「としとくあきの方 いねの間万よし」とあり、歳徳(神)の恵方は亥子(いね)であることが示されています。歳徳は吉方であり、その逆に金神は凶方です。というのも、陰陽道では金神は恐ろしい神と認識されていたからです。
金神は金の精で殺伐を好み、物心すべて冷酷無残となる凶神です。かつては鬼門以上に忌み嫌われていたようです。金神のいる方角には土木、旅行、移転はもとより、嫁取りなども避けられていました。江戸時代の図解百科である『和漢三才図会』の金神の項を見ると、「もしこれを犯せば7人の人が死ぬ。当事者の家人だけで数が足りなければ、隣人までまき込むので、隣人も用心しなければいけない。」とあります。これを「金神七殺(ななさつ、しちせつ)」といい、恐怖感をあおっていました。
金神を形容する言い回しとしては、そのほかに「金神奈落」とか「金神避(よけ)」というのもありました。奈落とはどん底のことです。「奈落の底」といえば底の底、果ての果て、ときには地獄の底を意味しています。そのような危険きわまりない方角に金神は位置づけられているので、万事につけ避ける「金神避」が処世術の要となっていました。
ただし、人間はいつも緊張しているわけにはいきません。金神もときには息抜きが必要です。そこで金神が「遊行(ゆぎょう)」する日に限っては遊行する方角以外は安心して何ごともできる日がもうけられました。さらに、「金神の間日(まび)」といって金神が活動を休む日がありました。その日は金神の方角であっても差し支えない日でした。「春は丑、夏は申、秋は未、冬は酉の日」で、このことも『和漢三才図会』には載っています。遊行日と間日のおかげで人もときどき金神の方角を気にしなくてもよくなりました。
ちなみに、金神の禁忌は平安時代にも知られていましたが、具注暦には記載されていません。他方、仮名暦では16世紀頃から載るようになり、配当法は貞享改暦のときから次のように統一されました。
幕末維新期に備中国(岡山県西部)で誕生した新宗教に金光教があります。創始者(教祖)は金光大神(こんこうだいじん)を名のった農民でした。かれは養家の家督を継いで家産も回復した頃、実子の相次ぐ死亡や病気、あるいは飼い牛の死去など次々に不幸に見舞われました。そのため十数年の間に7つの墓を築かねばならず、「金神七殺」の祟(たた)りであると恐れていました。そして42歳の厄年に扁桃腺炎のような難病にかかり、修験者に祈祷を依頼したところ、「普請(ふしん)、移徙(わたまし、転居)につき、豹尾(ひょうび)、金神へ無礼いたし」とのお告げがくだり、ひたすら神に許しを請うと、病気はやがて全快しました。その後、金神への信心を深め、神への取次ぎの活動を開始し、病気治しなどにも従事するようになりました。
金神は祟り神でしたが、次第に救済神としての神格をあらわすようになり、一心に願えば人間を救ってくれる存在になっていきました。そして天地の祖神(おやがみ)、天地金乃神(てんちかねのかみ)であると説かれるようになりました。その教えは、人間に良いことは吉所、吉日、吉方であり、神が氏子を苦しめることはないと、従来の陰陽道的な吉凶や方位などの価値観を転換させました。金光大神の教えの核心ともいうべき「天地書附」には「おかげはわが心にあり今月今日でたのめい」とあり、お日柄を選ばずにいつでも神に願うことが是認されたのです。
【参考文献】
岡田芳朗ほか編 2014 『暦の大事典』朝倉書店。
暦の会編 1986 『暦の百科事典』新人物往来社。
島薗進 1980 「金神・厄年・精霊―赤沢文治の宗教的孤独の生成」『筑波大学 哲学・思想学系論集』第5号、167-194頁。
寺島良安 (島田勇雄ほか訳注) 1985『和漢三才図会1』平凡社。
村上重良 1978 『日本宗教事典』講談社。