こよみの学校

第206回 夏越しの祓 伝統の復活

新暦6月30日は大祓(おおはらい/おおはらえ)の日です。12月31日にも年末の大祓がおこなわれます。年に2回、半年の周期で実施される神事は律令時代に起源をもつ伝統です。それは当時、中臣(なかとみ)の祓と呼ばれ、朱雀門の広場に親王以下百官を集め万民の罪や穢(けがれ)をはらうものでした。「延喜式」第8巻にはそのときに読みあげられる祝詞(のりと)が載っています。天つ罪、国つ罪などもろもろの罪・穢を中臣氏がとなえる祝詞によってはらう神事でした。

その後、朝廷の大祓は中世のある時期、13世紀とも応仁の乱の時とも言われていますが、いちど中絶しました。しかし、中臣の祓の祝詞は陰陽道や密教と習合し、神前や祈祷の場で呪文のように百度、千度、一万度と重ねて唱えられるようになりました。そして明治になって、古代の旧儀にある程度則した大祓が再興されました。暦を見てみると、幕末には200万部に達していたとされる伊勢暦には大祓のことはまったく載っていません。それが明治改暦以降、歴代天皇の命日が官暦に記載されるようになって、大祓も年中行事のような扱いを受けるようになったのです。言い換えれば、大祓は国家の祭祀として復活したのです。

他方、民間では夏越しの祓とか水無月祓などがさかんにおこなわれていました。京都の賀茂別雷(わけいかずち)神社や大坂の住吉神社のものが有名ですが、とくに茅輪(ちのわ)くぐりが一般的でした。これは鳥居の下や拝殿の前などで茅(ちがや)を束ねて大きな輪を作り、その中をくぐることで穢れや災いを祓うものです。その際、「水無月の夏越しの祓するひとは、千歳(ちとせ)の命延(の)ぶというなり」と唱えながら、左まわり、右まわり、左まわりの順に、8字を描くようにくぐるのが作法とされています。

この風習は『備後風土記』逸文にみえる蘇民(そみん)将来の説話に由来しています。

むかし、武塔神(むとうしん)が夜這いの旅の途中宿を求めたが、裕福な弟の巨旦(こたん)将来はそれを拒み、貧しい兄の蘇民将来は一夜の宿を提供した。後に再びそこを通った武塔神は兄蘇民将来とその娘の腰に茅の輪をつけさせ、弟たちを皆殺しにしてしまった。武塔神は「吾は速須佐雄(はやすさのお)の神なり。後の世に疫気(えやみ)あらば、汝、蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以ちて腰に着けたる人は免れなむ」と言って立ち去った。

茅の輪は夏の疫病除けの信仰と結びつき、茅の輪くぐりのような神事を生み出しました。牛頭天王(ごずてんのう)をスサノオと同一視してまつる京都八坂神社は疫病除けの祇園祭で有名ですが、その境内にある疫神社の鳥居には茅の輪がくくりつけられます。

茅の輪以外に夏越しの祓でつかわれるものに人形(ひとがた)があります。紙の人形に自分の名前を記し、それを身体の悪い部分に当てたり撫でたりして、その後、水に流すのが通例です。また、人みずから水に浸ることもあれば、牛や馬を川や海に連れて行き、水辺で遊ばせたりする習俗も各地で見られました。これらも水による夏越しの祓とみなすことができます。

このように宮中と民間を問わず、旧暦の水無月晦日には夏場の疫病流行にそなえ、中臣の祓や夏越の祓をおこない、予防措置を講じてきたのです。夏は食べ物も腐りやすく、とくに都のように人びとが密集して暮らすところでは、夏の流行病は何としても避けたい天敵でした。祇園祭自体も水無月の中旬に疫神を追い払う行事でした。また、関西では定番の水無月という和菓子も夏越の祓に無病息災を願って食べるのが本来のならわしでした(本コラム第57回「和菓子の水無月―暑気払いと厄除け」参照)。忌まわしい夏にむけてのさまざまな予防手段のひとつが夏越の祓なのです。

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