こよみの学校

第205回 暦と陰陽道① 陰陽寮

最近、『新陰陽道叢書』全5巻(2020-2021)が完結しました。30年前の『陰陽道叢書』全4巻(1991—1993)を継承するとともに、それを乗り越えようとする意欲的な刊行物です。とくに中世・近世の研究が厚みを増しました。その一方、1990年代頃から安倍晴明(あべのせいめい)を中心に文学や漫画、映画の世界でいわゆる陰陽師ブームがおこりました。そこでは超能力を発揮するヒーローとして陰陽師が描かれています。そうした2つの潮流に乗って、暦と陰陽道の関係をシリーズとして解きほぐしてみたいと思います。

陰陽寮の誕生

律令時代、暦は陰陽寮(おんようりょう、おんみょうりょう、おんようのつかさ)でつくられていました。陰陽寮は卜占、天文、暦、時刻などをつかさどる役所です。寮とは言っても学生寮や社員寮を思い浮かべてはなりません。れっきとした官僚機構のひとつであり、特殊技能を有する官人組織だからです。すでに7世紀の後半、天武天皇の時代には存在していました。そこは長官である陰陽頭(おんようのかみ)を筆頭に陰陽博士、天文博士、暦博士、漏刻(ろうこく)博士などで編成されていました。天文博士と暦博士は読んで字のごとくですが、陰陽博士は占いにかかわり、漏刻博士は漏刻と呼ばれた4段式の水時計を管理していました。また陰陽寮にはそれぞれの職掌を学ぶ学生(がくしょう)たちもいました。

具注暦

陰陽寮でつくられる暦には年月日だけでなく、さまざまな暦注が書き込まれていました。それは漢文で書かれ、具注暦(ぐちゅうれき)と呼ばれていました。具注とは具(つぶさ)に注すという意味です。そこには歳位、星宿、干支、吉凶などの暦注がこまごまと記されていました。ただし、天皇に献じられた現物は残っていません。初期のものとしては考古遺物として木簡や漆紙に書写された具注暦の断片を知るのみです。平安中期になると貴族たちが書写の際、日ごとに空白を設けて日記を記すようになり、藤原道長の『御堂関白記』のように後世に残されたものもあります(本コラム第133回参照)。

特定氏族の台頭

天体観測や作暦、占術は国家統治に必要な技術であり、当初は百済などの渡来人やその子孫たちが継承していました。陰陽寮が設置されると、それぞれの技能を発揮するとともに学生たちを養成していたのです。時には僧侶を還俗させ、家族を形成して血縁者に継承させたりもしました。とはいえ、断絶の危機に見舞われることもあり、9世紀になると特定の氏族が特殊技能をになうようになりました。暦の分野では大春日氏や刀岐氏などが知られています。また9世紀には災害や疫病は統治者の責任よりも祟(たた)りとみなされるようになり、卜占の需要が増加し、陰陽道の祭祀が案出されるようになりました。そうして新興の氏族である賀茂氏や安倍氏が台頭することになります。

起点となったのは賀茂保憲(かものやすのり)です。かれは暦博士、天文博士、陰陽頭を歴任し、陰陽寮を離れて他の官職についてからも陰陽師としての活動を続けました。これを「寮外陰陽師」と称する研究者もいます。その寮外陰陽師としての役割が実子の賀茂光栄や弟子の安倍晴明に引き継がれ、賀茂氏には暦道が、安倍氏には天文道が継承されていく契機となりました。陰陽道のトップは「道上臈」「一上臈」などと称されましたが、陰陽頭ではなく、寮外陰陽師の賀茂氏・安倍氏の場合が多かったのです。

11世紀中葉以降になると、賀茂氏・安倍氏が陰陽道の上臈にのぼる「博士家」として固定化した昇進コースを独占するようになりました。その下には中原氏や惟宗(これむね)氏などが下級官人の「門生家」として従属し、それも世襲化するようになりました。次におこった変化は、賀茂氏と安倍氏の分立であり、「博士家」の嫡流と庶流への分化でした。加えて、鎌倉幕府が成立すると、そちらに取り込まれていく陰陽師も出現し、陰陽寮という役所は次第に陰陽師をとりまとめる機能を弱めていったのです。

【参考文献】
高田義人 2020 「陰陽道の組織と秩序」細川浩志編『新陰陽道叢書 第一巻・古代』名著出版。

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