現在、新型コロナウィルス感染症に世界中が振り回されていますが、約200年前、日本はパンデミックのコレラに見舞われていました。コレラはベンガル地方の風土病でしたが、イギリスがインドの植民地経営に乗り出した結果、それにともなって船舶がコレラを東南アジア、東アジアへと運び、ついに日本にまで伝播したのです。1822年(文政5年)、その未知の疫病は西南日本にはじまり、東海道にまでおよびましたが、箱根を越えることはなかったようです。しかし、3日で死ぬようなおそろしい病気だったので大坂では「3日コロリ」とよばれました。
その年の秋、播磨国(兵庫県)の赤穂城下では家ごとに門松やしめ縄が飾られました。正月を迎えるような対応を藩主から指示され、年始の挨拶など正月を模倣した行動もとられました。これを歳改(としかえ)と称します。流行(はやり)正月という言い方もあります。要するに、災厄に満ちた年を早く済ませ、新しい年を迎えることで災禍を追放しようとしたのです。
日本におけるコレラの2回目の流行は1858年(安政5年)におこりました。ペリーの来航から5年後で、3年間続き、江戸だけでも10万とも20万とも言われる多数の死者がでました。初年次の秋には、松竹飾りやしめ縄に加え、煎った豆もまかれました。正月だけでなく、節分まで模倣されたのです。当時の文書には、「かかる年の疾過(はやすぎ)ぬべし」(安政箇労痢流行記)とあります。月切りの新年は正月ですが、節切りの新年は立春です。立春の前日が(春の)節分ですから、ふたつの新年をあわせて済ませてしまおうという気持ちだったのでしょう。
流行正月=歳改はコレラの時に突然あらわれた現象ではありません。民俗的な慣行として定着していた習俗でした。それは悪疫の流行だけでなく、天候不順とか、天変地異とかに起因する災厄をできるだけ早く脱したいという心意に根ざしていました。誰ともなく餅をつき、門松を立て、しめ縄を張り、晴着を着て新年の挨拶を交わすことで、旧い年を終わらせようとしたのです。それが近隣にも広まって流行正月の名で呼ばれるようになったのでしょう。時期的には六月頃が多かったようです。
江戸のコレラ除けについては別の対応も見られました。家の戸口に八つ手の葉一枚、杉の青葉少々、赤唐がらし2、3本、赤紙一枚を吊すとコレラにかからないというおまじないです。八つ手の葉は天狗の団扇に象徴される験力をあらわし、杉は「過ぎ」に通じ、赤唐がらしと赤紙は疱瘡(ほうそう、天然痘)除けと同様、赤に呪術的な魔除けの意味が込められていました。
明治になってもコレラの流行は止みませんでした。疱瘡のときに疱瘡絵が広まったように、コレラのときにもコレラ絵が描かれました。その一例を紹介しましょう。「虎列刺退治の奇薬」として「梅酢」が推奨されているものです。コレラ(コロリ)は3つの動物の合体した姿で描かれています。虎(こ:頭)、狼(ろ:胴体)、狸(り:睾丸)です。この怪獣には消毒薬の石炭酸も、予防薬の宝丹も効き目がなく、梅酢のみ効力があると書かれています。
コロナ感染症にコロナ絵が流行する兆しは見られません。アマビエもブームと言えるほどではなく、正月支度を急ぐ様子もありません。1883年にコッホがコレラ菌を発見して以来、感染症には近代西洋医学が立ちはだかってきました。「伝染病(コレラ)は公衆衛生の母」とまで言われるように、公衆衛生の観念も広まりました。目下、マスクをつけ、三密を避け、消毒やうがい・手洗いを励行するといった行動様式がとられています。それでもなお、ポストコロナという「新年」を一刻も早く迎えたいという切望があるのは、流行正月=歳改のDNAがどこかに潜んでいるからでしょうか。
【参考文献】 西村明 2021 「近代日本におけるコレラの流行と宗教」『宗教研究』95(2)、53-73頁。