こよみの学校

第192回 メトン周期―古代ギリシャの置閏法

古代ギリシャの暦は太陰太陽暦でした。バビロニアからの影響が考えられますが、その確証は得られていません。はっきりしているのは、アテネやスパルタをはじめとする多数の都市国家(ポリス)が併存し、それぞれに異なった暦を使用していたことです。ポリスはBC8世紀の半ばには成立していたようで、同じ頃、フェニキア文字を借用してギリシャ文字がつくられました。その文字でホメロスの有名な叙事詩『イリアス』と『オデュッセイア』が書かれました(同一作者かどうかについては疑問視されています)。文字を共有することでギリシャ人という同胞意識をもつようになったとおもわれますが、統一国家や共通の暦はつくられませんでした。

月の名称や新年の時期も暦によってまちまちでした。太陰太陽暦は月と太陽の運行を調整した暦法ですが、その要となっているのが置閏法(ちじゅんほう)です。古代ギリシャではBC433年にメトン(メトーン)という天文学者が19太陽年に7回閏月を入れると季節と暦のズレが解消することを発見しました。発見とはいっても、実際には、バビロニアの実践例から考案したのではないかと推測されています。メトン周期の起算日はBC432年6月27日です。それを計算式で示すとすれば、次のようになります。

つまり、おなじ月日におなじ月の位相が見られるという周期です。「19年7閏」ですが、メトンの名前をとってメトン周期あるいはメトン法と呼ばれています。その後BC334年にギリシャでは天文学者カリポスがメトン周期を4倍にして修正したところの76太陽年=940朔望月=27559日という周期を提案し、BC330年に採用されました。またBC125年頃、天文学者のヒッパルコスがカリポス周期をさらに4倍して1日を差し引くというヒッパルコス周期を考案しました。これは304年間に112回の閏月を入れる置閏法ですが、実際には用いられませんでした。

しかし、これで問題がすべて解決したわけではありません。なぜなら、いつ閏月を入れるかについては原則が確立していなかったからです。アテネではそのときどきのアルコン(筆頭役人)の判断にゆだねられることもあれば、民会の動議によって決定されることもありました。

このように月名も異なり、閏月の入れ方もまちまちで、統一した暦が存在しない状態で年月日はどのように記されていたのでしょうか。アテネの歴史家ツキジデス(トゥキュディデス)はスパルタとの和平条約の発効日について次のように書いています。

ここからアルカイオスがアルコンであったBC421年の春ということが導き出せるそうです。また月名がちがうだけでなく、おなじ太陰太陽暦でも月日が異なっていたことがわかります。それはともかく、何ともまどろこしい日付になっています。

メトン周期にあたるものを中国では章法と呼んでいました。19年を1章とし、その周期に7回閏月を置いていました。漢初、四分暦の一種である顓頊(せんぎょく)暦でも章法が採用されていました。四分暦という名称は1太陽年を365日と四分の一にするところに由来しています。そして1朔望月は基本的に以下のように定められていました。

ただし、章法はあくまでも近似的なものであり、19太陽年は235朔望月=6940日より少し短く、のちに章法を破棄するという意味で「破章法」とよばれる、より厳密な周期が考案されてゆくことになりました。

【参考文献】
内田正男 1986『暦と時の事典』雄山閣。
桜井万理子 2014 「古代ギリシャの暦」 岡田芳朗ほか編『暦の大事典』朝倉書店、94-102頁。

 

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