今年の干支は庚子(かのえね、こうし)です。干支の37番目にあたります。干支の最初は甲子(きのえね、こうし)で、1924年に完成した甲子園球場につかわれています。干支はまた戊辰戦争(戊辰の役)のように、1868年の戊辰(ぼしん)の年にはじまった戦争の名称として使用された例もあります。しかし、庚子のつく建物や事件をわたしは知りません。
百科事典を紐解いてみると、「庚子字(こうしじ)」という事項が見つかりました。李氏朝鮮の1420年、新たに鋳造された銅活字が干支にちなんで命名されています。また、「庚子賠款(こうしばいかん)」という賠償金のことも見つけました。1899年に発生した義和団事件の処理に対し、清国が負った対外的な負債です。しかし、いずれも外国のことで、日本には庚子の影はみあたりません。
十干の庚は十二支と結びつき、次の6つの干支となっています。
しかし、十干と十二支は120の組み合わせがあるにもかかわらず、60のサイクルで元に戻るため、以下のような干支の組み合わせは存在しません。
庚がつき実用される6つの干支のうち、もっとも知られているのは庚申(かのえさる、こうしん)です。それは庚申講、あるいは庚申塔建立の習俗として沖縄を除く全国にひろまりました。しかも申(さる)にかかわるところから、「見ざる、聞かざる、言わざる」の三猿ともつながり、民間信仰として深く庶民生活に浸透しました(三猿については第72回も参照のこと)。
庚申講とは要するに庚申の日に夜を徹しておこなう長生祈願の集まりです。庚申様は仏教でいえば青面金剛(しょうめんこんごう)、神道では猿田彦のかたちをとり、その画像の掛軸をかけ、お神酒や精進料理を祭壇に供え、真言や般若心経を唱えたりします。庚申講は平安時代の公家社会における守庚申(しゅこうしん)に端を発し、武家にもひろがり、庶民のあいだでは室町末期からさかんとなりました。
長生祈願については道教の三尸(さんし)にまつわる説を紹介する必要があります。三尸は体内にいるとされる三匹の虫で、庚申の夜、人が眠ると体内から抜け出し、天にのぼり天帝に日ごろの悪事を告げ、天帝はその人を早死にさせるというものです。そのため、庚申の晩は眠らずにいるのがよいとして守庚申がはじまりました。
庚申講は村組単位でつくられることが多く、講員が順番で宿を提供したり、庚申堂に集ったりしました。定期的な村寄り合いといったおもむきです。「話は庚申の晩」といわれるように、仲間うちで飲食・雑談をする機会にもなっていました。そこでの話し合いが「見ざる、聞かざる、言わざる」の掟にしばられていたのかどうかはわかりません。ただ、親の悪口や他人の悪口を言ってもいいから遅くまで起きているようにという言い伝えがのこっています。
旧暦時代、庚申の日は年に6回前後ありました。七庚申といって7回もあるときは火事が多いなどと言われたりもしました。そして60年に1回めぐってくる庚申の年にはあちこちに庚申塔が建ちました。三尸説のような道教の観念が公家、武家、庶民を問わず広汎に受け入れられたことはおどろきです。三猿の教訓のように日本的な変容をこうむっているとはいえ、無病息災、健康長寿はだれにとっても切実な願いでした。だからこそ今日まで続いてきたのでしょう。村落社会の庚申講はずいぶん下火となりました。しかし、願かけの「くくり猿」で有名な京都八坂の庚申堂のように、インスタ映えする人気スポットとして健在ぶりを発揮しているところもあるようです。
最後に、「庚」だけにかかわる暦注に「三伏」(さんぷく、さんふく)があります。夏至後の第3の庚(かのえ)の日を初伏、第4の庚の日を中伏、立秋後の最初の庚の日を末伏といい、この三つをあわせて三伏というものです。夏の火の気に伏せられるところから、酷暑の候を意味し、「三伏の候」などと暑中見舞いに使われました。
【参考文献】
窪徳忠『庚申信仰』山川出版社、1956年。