こよみの学校

第161回 ミュージアム・カレンダー⑥ デトロイト美術館

デトロイトの町

アメリカのデトロイトは「自動車の町」として有名です。大量生産のはしりともいえる「T型フォード」がすぐに思いだされ、自動車産業最大手のゼネラルモーターズ(GM)の本社もあるからです。大リーグのタイガーズの本拠地としても知られています。地理的には、カナダと国境を接する五大湖にかこまれたミシガン州の町です。

デトロイト美術館のカレンダー

そのデトロイトを代表するミュージアムがデトロイト美術館です。英語名はDetroit Institute of Artsと言い、ミュージアムではなくインスティチュートを名のっているのは研究や教育といった意味合いが込められているからでしょう。1885年に開館し、アメリカの芸術家を中心とする6万5000点のコレクションは全米第3の規模をほこっています。ヨーロッパの美術についてもブリューゲルやレンブラント、ドガやセザンヌなど、有名どころの作品を展示しています。とりわけゴッホの自画像はデジャブ感があります。しかし、圧巻は何と言ってもリベラの壁画です。美術館のミュージアム・ショップにはかれの壁画だけを紹介するカレンダーが売られていました。表紙の写真は「デトロイト工業壁画」と命名された展示ホールです。

ディエゴ・リベラはシケイロスやオロスコと並ぶメキシコ壁画運動の旗手です。かれらは1911年のメキシコ革命以後の時代にふさわしい芸術を創造しようとしていました。それはひと言でいえば、スペイン植民地化以前のアステカ文明をよみがえらせる運動であり、メキシコ人の独自性を主張するものでもありました。かれらは1920年代から30年代にかけて宮殿や学校など、公共建造物の壁にメキシコの歴史を誇示するような壁画を描きました。それは世界の美術界を仰天させる、大きなうねりを巻き起こしました。

ディエゴ・リベラの壁画

リベラは1930年から33年にかけてアメリカでも壁画制作に従事しました。デトロイトにはフォード社とデトロイト美術館の招きでやってきて、11ヵ月をかけて展示ホールの壁画を完成させました。しかも毎日、20時間近くも没頭したそうです。北側の壁にはエンジンやトランスミッションをつくる作業現場が描かれました。相対する南側の壁には、車軸やハンドル、あるいはボディーやフェンダーを取り付けるアッセンブリー・ラインが描写されました。自動車産業だけでなく、製薬やガス爆弾の製作現場も南北の壁に対峙し、ある種の不気味さをただよわせています。その一方、東の壁にはカボチャ、トウモロコシ、リンゴ、ブドウ、キュウリなどミシガン州でとれる野菜や果物が画材となっていて、一種の安堵感をあたえています。

工場労働者は筋骨たくましく、力を合わせて作業する姿も印象的です。しかも「白人」に混じって「黒人」もちらほら見えますが、これは実態とはことなり、リベラの理想像をあらわしたものとされています。また、フォード社の社長と美術館の館長もさりげなく壁画におさまっていますが、これはパトロンへの敬意のあらわれと理解することができます。というのも、ニューヨークでロックフェラー財団から依頼された壁画にレーニンの肖像を描いたところ、制作が中止に追い込まれたという事件も存在するからです。

ディエゴ・リベラと日本の芸術家

ところで、リベラと親交のあった日本人の画家の一人に藤田嗣治がいます。藤田は1931年、パリを離れ中南米の旅に出ました。メキシコの壁画にもふれる機会があり、帰国後、秋田の資産家、平野政吉の依頼を受け大作「秋田の行事」(1937年)に取り組みました。縦3.65m、横20.5mにおよぶ一大パノラマです。これはリベラらのメキシコ壁画運動ぬきには語れない作品です。

もう一人、メキシコの壁画に強く惹かれた日本人がいました。「太陽の塔」をつくった岡本太郎です。かれはメキシコのホテルにたのまれ、核の悲惨さを訴える「明日の神話」(1969年)を制作しました。一時、行方不明となっていましたが、現在、渋谷駅の通路に展示されています。

【参考文献】
市川慎一「メキシコと日本人画家―Diego Riveraと藤田嗣治」『学習院女子大学紀要』第7号、2005年。

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