こよみの学校

第146回 辛酉革命と甲子革令―道真追放のたくらみも

第146回 辛酉革命と甲子革令―道真追放のたくらみも

変化していく「改元」のあり方

日本の年号は大化にはじまり、令和を含めると248にのぼります。吹田市立博物館のミニ展示「『大宝』の発見―年号に問う吹田の歴史」では年号の一覧表を作成しました。それをみると、全体としては天皇の代始改元が70を越えるのですが、飛鳥、奈良、平安前期には祥瑞改元が多いことに気づきます。白雉(はくち)は白い雉(キジ)、朱鳥(しゅちょう、あかみとり)は赤い雉、霊亀・神亀・宝亀は瑞祥の亀が献上されたことにともなうものでした。大宝も対馬から献上された(という)金に由来します。ところが、平安後期になると災異改元が目立つようになりました。災難や異変に対して「流れ」を変える目的で改元したのです。疫病や地震、火災、旱魃、大雨、大風、それに平将門の乱のような異変が改元の理由となりました。というのも祥瑞(吉兆)や災異(凶兆)は治世者の人徳や政治と相関しているという観念にもとづいていたからです。いわゆる「天人(てんじん)相関説」です。

「天人相関説」に加え「讖緯(しんい)説」も改元にかかわっていました。それは陰陽五行説にもとづく一種の神秘的な未来予測であり、後漢の時代に盛行をきわめました。日本にも奈良時代には伝えられ、陰陽道に強い影響をあたえました。干支の辛酉(しんゆう)や甲子(かっし)の年には革命(かくめい)(天命が改まること)や革令(かくれい)(天令が改まること)が起きるという説もそのひとつです。『日本書記』では神武天皇の橿原宮(かしはらのみや)での即位も辛酉の年に定められました。西暦では紀元前660年にあたります。これが神武天皇即位紀元=皇紀の紀元となっているのです。

“革命”と“革令”の改元

平安時代に三善清行(みよし・きよゆき)という文章博士(もんじょうはかせ)が辛酉革命説を唱え、天皇に上奏して延喜(えんぎ)(901年~923年)の改元となりました。上奏に際しては、「革命勘文(かんもん)」とよばれる改元の案を提出し、「難陳(なんちん)」という公卿による審議にかけて、天皇に届けるという手続きをとりました。「革命」の改元は延喜にはじまり、「革令」の改元は康保(こうほう)(964年~968年)からですが、それ以降、わずかの例外を除き幕末まで辛酉と甲子の年には改元がおこなわれました。それは数にして31にのぼります。

三善清行は神武即位元年から1560年目に当たる昌泰(しょうたい)4年、辛酉の年は「大変革命年」(『易緯』)であるとし、改元を奏上しました。そこには右大臣菅原道真(すがわらのみちざね)の失脚をもくろむ意図があったとみられています。すなわち、道真の太宰府追放と表裏一体をなして辛酉革命論が展開されたというのです。

梅花の歌に残した思い

その太宰府はいま「令和」の改元で盛り上がっています。というのも、新元号が『万葉集』巻5の「初春令月、気淑風和」からとられたからです。その舞台が太宰府の大伴旅人(おおとものたびと)の邸宅でした。天平2年(730年)にもよおされた梅花の宴の旧跡には坂本八幡宮が建ち、急に全国に知られる観光名所となりました。

ちなみに、梅花の宴のモデルは書聖と称された王羲之(おうぎし)が蘭邸で催した曲水の宴にあり、「初春令月、気淑風和」も漢籍の「仲春令月、時和気清」(『文選』に収められた張衡の作品)に由来していることは周知の事実です。いわば「本歌取り」にあたることは言うまでもありません。

菅原道真も大伴旅人も太宰府に派遣された高級官僚ではありますが、左遷や不遇を嘆く歌をそれぞれに残しています。梅花の歌が恨み節となっていることに複雑な思いを感じる人も多いことでしょう。その時代背景としては、天平の頃は祥瑞改元が頻繁に起こっていました。他方、延喜からは災異改元が目立ちます。祥瑞から災異に変わる転換期に辛酉革命説にもとづく延喜改元がおこなわれたのです。このことも一考に値するかもしれません。

【参考文献】
所 功『年号の歴史』雄山閣、1988年。

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中牧ひろちか 吹田私立博物館館長 暦(こよみ)の学校
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