慣用表現のひとつに、休日のない一週間を「月月火水木金金」と称することがあります。「休日返上」と同義です。最初に耳にしたのがいつ頃だったかは覚えていません。しかし、戦時中の働き方を指していたことは認識していました。とはいえ、それが軍歌に由来することは最近まで知りませんでした。海軍が発信地だったのです。
海軍は日露戦争(1904~1905年)のあとも「勝って兜の緒を締めよ」とばかり休日返上で猛訓練をしていました。1908年、海軍の都留雄三大尉が「これでは、まるで月月火水木金金ではないか」とふと漏らしたそうです。その後、1930年のロンドン軍縮条約の際、日本の軍艦保有率が米英よりも低く抑えられた結果、その差を戦闘力の質で補うべくさらなる猛訓練に励むようになったとき、「月月火水木金金」が合言葉になりました。とはいえ、まだ海軍内部のことで、一般には知られていませんでした。
1940年11月、海軍省の依頼を受けたポリドール・レコードは「月月火水木金金」を700枚発売しましたが、70%が返品になったそうです。ところが翌年、真珠湾攻撃を皮切りに太平洋戦争がはじまると、「軍艦マーチ」とともに本曲が急にはやりだしました。40万枚が売りつくされ、「艦隊勤務 月月火水木金金」は流行語となったのです。
「月月火水木金金」が発売された頃、奉祝国民歌「紀元二千六百年」も作曲されました。そこでは「紀元は2600年」が繰り返され、国威発揚の奉祝イベントを盛り上げました(本コラム第128回「紀元二千六百年」参照)。1938年に発布・施行された国家総動員法のもとで、日中戦争から太平洋戦争へと突き進むなか、暦法にかかわる軍歌と国民歌が同時に生み出されたことは興味深い偶然です。歌には当時の国民文化を特徴づけ、その精神文化を鼓舞する役割があったように思います。きびしい窮乏生活を耐え抜くためには、労苦を惜しまず身を粉にして働くことが必須でした。「月月火水木金金」は国民の国民による国民のための応援歌だったのでしょう。
時は移り、戦後の高度成長期、一部のサラリーマンたちは「企業戦士」とか「会社人間」とよばれるようになり、休日も家庭も無視して働き詰めの生活を送るようになりました。不思議なことに、その頃ふたたび「月月火水木金金」が流行したのです。今度はコミカルに、国民的お笑いタレントのザ・ドリフターズがテレビで歌っていました。レコードアルバム「ドリフの軍歌だよ全員集合‼」も発売され、今ではYouTubeでも視聴できます。その出だしは以下のとおりです。
いかりや長介:全員集合‼今日は何曜日だ?
その他全員:日曜。お休みです。
いかりや長介:ばかもの。軍隊に土曜日曜はない。月月火水木金金あるのみ。全員作業開始!
その他全員:そんなばかなー。
いかりや長介:それでは元気に歌いながら、行けー!
『大衆文化事典』(弘文堂、1991年)には「月月火水木金金」という項目があり、その末尾は「オイルショック前の高度成長期に、休日返上で働く一部の猛烈サラリーマンたちの間で、この語が自嘲的に口に上ったこともあった」と結ばれています。思うに、国家総動員体制と高度経済成長期にはいくつかの共通点がみられます。いずれの時期も戦争の渦中です。かたや軍事的な武力衝突ですが、もう一方は経済的な貿易摩擦です。「企業戦士」という表現が見事にその特徴をあぶりだしています。女性の役割も「銃後の守り」から「専業主婦」に大きく移行しましたが、家や家族を守ることに変わりはありませんでした。
そして高度経済成長を謳歌していた日本に転機が訪れます。1973年の第一次オイルショックです。これを境に週休2日制が次第に定着しはじめました(本コラム第115回「土曜の色はいろいろ」参照)。「月月火水木金金」は駆逐され、時代遅れの遺物と化していき、もはや人びとの口の端にすら上らなくなりました。
【参考文献】
鷹橋信夫 1991「月月火水木金金」『大衆文化事典』弘文堂、234頁。