こよみの学校

第162回 十二支の子―終始と太極の象徴

第162回 十二支の子―終始と太極の象徴

十二支があらわす時間

十二支の第一は子(ね)です。子は「了」(おわり)と「一」(はじめ)が組み合わさった文字です。そのため、ものの「終始」の時と所を象徴し、中国の循環哲学では中枢・中央として意識されてきました。ただし、甲骨文字では子は幼児の形をとり、誕生を連想させる象形(しょうけい)でした。殷代の十二文字では神体(しんたい)の形代(かたしろ)とされています。とはいえ、十二文字の組み合わせと順序に関してはいまでも判然としないところがおおいようです。

その後、十二文字は種子などが内部から成長し、やがて衰微する植物の生命サイクルとして説明されるようになりました。そして、秦代から後漢時代にかけて動物と結びつけられるようになり、十二支とよばれるようになりました。子がネズミになったのもこのときです。

十二支は当初、殷代には紀日法にもちいられ、戦国時代には紀月法に、その後漢代にかけて紀年法にもつかわれるようになりました。1日を12分する十二時辰(じしん)に十二支が配当されるのも漢代といわれています。

十二支の配当は時間だけでなく、方位にも適用されるようになりました。子が北で、東は卯(う)、南は午(うま)で西は酉(とり)です。方位には易学の発展が関係しているので、これも漢代からと推定されています。

はじまりの「子」

ところで、紀月法では冬至を含む旧暦の11月が子月です。易の卦では「地雷復」(ちらいふく)ですが、これは陰がつきて陽がはじまる「一陽来復」でもあり、まさに冬至にふさわしい季節と言えます。

このように子は陰気と陽気を包摂する混沌として陰陽五行説では中枢を占めました。易や朱子学ではこの混沌を「太極」(たいきょく)とよび、古代天文学では「北極星」とみなしました。それはたんに北の極にある星というだけでなく、天空の中心とされました。そのため中国では天帝がそこに住むと観念され、日本でも天皇は常に都の北の中央に皇居と政庁をかまえたのです。その政庁を「大極殿」(だいごくでん)と称するのもそうした理由によるものです。

十二支で読み解く

陰陽五行思想に詳しい民俗学の吉野裕子は『日本書紀』の天智5年条に「是冬、京都之鼠、向近江移。」とあるのを次のように解釈しています。

(1) 鼠とは「子」
(2) 冬とは旧11月、つまり「子月」
(3) 近江とは真北の「子方」

これは天智天皇による近江遷都の前年であり、冬とは冬至を含む旧11月のことで、鼠は生物のネズミではなく、「子」に暗示される「太極」のことであって、この冬、京都(みやこ)のある大和から「子」の方角にある近江に行ったと解読しています。

さらに、吉野説にしたがえば、大嘗祭もまた「子」と深い関係にあります。天皇は「子の星」である北極星の徳を引き継ぐ存在であり、神饌を共食することによって祖霊と合体するとみなしています。明治以前の大嘗祭は「子月」におこなわれ、神饌の供進時間の中心も「子刻」であり、祭祀の方角も「子方」の廻立殿(かいりゅうでん)を中心とするものであると解釈しています。

現在の十二支

明治改暦以降、十二支は年ばかりで、月、日、時、方位についてはほとんど意識されなくなってしまいました。それでも子午線という場合には「子」と「午」を無意識のうちに使用しています。「午」は午前、午後、あるいは正午の単語としても健在です。いまでも「子」や「午」を基準に時間・空間を分かつことを観念として断片的に継承しているのです。

最近、チバニアンが地質年代として国際的に認められました。更新世中期の約77万4000年前、地磁気の逆転現象が起きたことを実証する最たる地層として選ばれました。真北のネズミは目を南北に白黒させているにちがいありません。

【参考文献】
濱田陽『日本十二支考―文化の時空を生きる』中央公論新社、2017年。
吉野裕子『十二支―易・五行と日本の民俗』人文書院、1994年。

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中牧ひろちか 吹田私立博物館館長 暦(こよみ)の学校
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