こよみの学校

第150回 台湾の暦―台湾民暦と農民暦

第150回 台湾の暦―台湾民暦と農民暦

台湾の移り変わり

台湾は英語でフォモーサFormosaとよばれますが、もともとポルトガル語ではイリャ・フォルモーザilha formosa (美麗島)を意味していました。ポルトガル人はインドのゴアを拠点に、マカオ、美麗島を経て、日本にやってきました。種子島に漂着し鉄砲を伝えたのが1543年です。その美麗島、台湾には平地の西部海岸部に漢人が福建や広東から移住しました。他方、中央から東部にかけては山岳地域となっていて、オーストロネシア系の先住民族が先史時代から暮らしつづけています。

明代には沖縄が「大琉球」、台湾が「小琉球」と称されたこともありました。17世紀になると、ポルトガル人を皮切りにオランダ人やスペイン人が通商のための基地を建設しはじめました。1661年、明の復興をはかろうとする鄭成功が2万5000の兵を率いて台湾に上陸し、オランダ人を追放して基地経営に乗り出しました。しかし、それも長くは続かず、結局、清の統治下にはいり、当初は福建省に隷属していましたが、1885年に台湾省がもうけられました。そして1895年、日清戦争の結果、台湾は清国から日本に「割譲」されたのです。

日本は総督のもと直接統治の体制をしき、灌漑施設を整備し、米作と糖業の振興をはかり、皇民化運動を強化していきました。日本の暦と中国の農暦がかかわるのはこの頃からです。

台湾民暦のはじまり

日本暦(官暦)は1899年から伊勢神宮の大麻とともに神宮教によって普及がはかられましたが、台湾総督府が積極的に支援した形跡はありません。しかし、1913年に総督府は「台湾民暦」を頒布しはじめました。これは「日本暦」と「中華暦」の折衷といわれるものでした。その最大の特徴は、紀元節や天長節などの日本暦の祝祭日に加え、台湾統治の正当性を象徴する「台湾始政記念日」と「台湾神社祭」が掲載されていることです。前者は台湾総督府が開庁した6月17日であり、後者は1901年に神殿が竣工し大祭がおこなわれた10月28日を記念していました。

「台湾民暦」とは別に、一枚刷りの民間暦もつくられていました。台湾では「暦図」とよばれ、内地の「略暦」に相当するものです。1914年の「暦図」の表題をみると「神武天皇即位紀元弐千五百七拾四年」「大日本帝国大正参年歳次甲寅暦日図」とあります。「暦図」の正式名が「暦日図」であることもわかります。そこには祝祭日として「台湾始政記念日」と「台湾神社祭」が加わっていますし、二十四節気や干支、ならびに各種占いの情報などが細かく載っています。しかし、西暦や民国暦(中華民国の成立を紀元とする紀年法)は見当たりません。

それと対照的なのが1946年版の「台湾民暦」です。「台湾民暦」と銘打っていますが、その文字は小さく、中央には「光復台湾大陰陽暦」の活字が「中華民国三十五年(丙戌)」をともなって大きく表示されています。前回(149回)も述べたように、「光復」は国権の回復を意味しています。日本の敗戦の翌年にでた暦ですので、皇紀や元号(昭和)は消えています。また「台湾始政記念日」のかわりに「国民政府成立記念日」(7月1日)が新たな祝日となっています。戦後しばらく8月15日は光復節とされましたが、のちに台湾受降調印記念日の10月25日に改められました。また曜日も日、月、火、水、木、金、土が中国風に星期日、星期一、星期二、星期三、星期四、星期五、星期六に変更されました。

中華文化をあらわす「農民暦」

現在の台湾には「通書」とともに「農民暦」が流布しています。前者は風水師や道士がもちいる分厚い書物ですが、後者は簡便で薄い刊行物です。「農民暦」には気候と豊凶に関する予測、生年や氏名による占い、神仏生誕日、民間療法や健康にかかわる情報、世界各国の時間や列車時刻表などが載っています。日の吉凶を知るのにもっとも便利なのが「農民暦」であり、区役所をはじめ農会や金融機関、新聞社や中小企業、あるいは寺廟や議員から無料で配布され、国民党の統治下で「中華文化」を表象する代表的なもののひとつとなりました。

【参考文献】
中牧弘允「メディアとしての暦―朝鮮・台湾・インドネシアにおける元号と皇紀」『関西学院大学社会学部紀要』130号、2019年。
游舒婷「官暦と民間暦を通してみる伝統と近代の交錯―日本統治時代の『台湾民暦』と国民党統治時代の『農民暦』をめぐって」『非文字資料研究』14、神奈川大学。

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