牡蠣が出回るようになると、いよいよ冬の訪れを感じます。
牡蠣の養殖が始まったのは江戸時代。文明二年、広島で始まったそうです。晩秋になると、広島の牡蠣は「かき船」と呼ばれる船で、次々と大阪に運ばれ、牡蠣を販売するだけでなく、船上で牡蠣尽しのご馳走をふるまう料理屋がたくさんあったようです。現在は淀屋橋に停泊する「かき広」が唯一、当時の名残りをとどめています。
そんなわけで、牡蠣料理は特に「くいだおれ」の大阪で、発達したといわれています。牡蠣めし、牡蠣フライ、牡蠣なべ、土手焼き、酢牡蠣、牡蠣の燻製やオイル漬けなど、レパートリーも豊富です。グラタンやシチューとの相性もよく、クリーミィな味わいとほのかな苦みには、冬ならではのあたたかい幸せを感じます。
ところで「かき船」は、明治以降、東京にも登場し、明治15年には全国に77隻、昭和初期には150隻以上あったという記録がありますが、第二次大戦後はほとんど姿を消してしまったようです。もしそんな風流な「船上グルメ文化」が今も残されていたら、水辺はマルセイユの港を思わせるようなグルメスポットとして活気を呈していたかもしれません。
江戸時代までは河川が主な流通経路であったため、多くの街は物資が流通する港や河岸を中心に形成されていましたし、川岸や船上文化は今よりもずっと活気にあふれ、豊かだったのです。人々は水辺を中心に集まり、水辺に親しみ、水辺を愛して生きていたのではないでしょうか。現在も古い街の川岸に揺れるしだれ柳などをみますと、人と水辺が優しく融合していた時代の香りがしてきます。
市街地を歩いていると、川や水路を埋め立てたと思われる遊歩道や、コンクリートで塞がれた暗渠(あんきょ)がじつに多いことに気づかされます。我が国は川よりも道路を優先した結果、小さな河川や用水路は次々と埋め立てられ、身近に水をみることは少なくなってしまいましたが、名残りをみせる遊歩道や暗渠に出くわす度に、ここには一体、どんな光景が広がっていたのだろうか、毎日水音が流れていたのだろうか、誰かが遊んだり、佇んでいたりしただろうか、とついつい想像してしまいます。
京都では夏の川床が今でも有名ですが、隅田川では真冬に船を出し、雪をみながらお酒を飲む雪見酒の風習も定着していました。雪見船は広重をはじめ、多くの絵師が描いています。船の上で、雪をみながらお酒を飲む。現在のような暖房のない時代、どんなに寒かったことでしょう。それでも人々は川の醸し出す風情に惹かれ、暑い夏も、寒い冬も、自然と交わることを楽しんでいたのだと思わずにはいられません。
日本では永らく水害から守るという観点から、河川は厳しく管理されてきましたが、近年は規制緩和が進み、水辺の未来を考えるプロジェクト、ミズベリング(MIZUBERING)が行政と一緒にユニークな活動を始めています。
◯ミズベリングWebサイト→https://mizbering.jp
「かき船」からずいぶん話が広がってしまいましたが、ともあれ「かき船」が、冬の風物詩だった時代があるのです。2月頃、広島に帰っていくことから「かき船帰る」は春の季語でした。その季節にしか味わえない船上での牡蠣の味は、どんなものだったのでしょうか。味もさることながら、やはり味わう場所やシチュエーションはいつまでも記憶に残るものです。
牡蠣船にもちこむわかればなしかな 万太郎
昔の映画をみているような、しっとりとした気分になりますね。
牡蠣船の薄暗くなり船過ぐる 虚子
牡蠣舟のともりて満ちぬ淀の川 鬼城
いかがですか? 情景が浮んでくるようではありませんか? 私にとって食べ物というものは、やはり誰と食べたのか、どんな季節の、どんなシチュエーションであったかが、いちばん大事なことのようにおもいます。自分の舌を満足させることよりも、「分かち合うこと」に本質的な喜びを感じるからかもしれません。