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今回は山の日のルーツについて学んでみましょう! こよみの博士ひろちか先生
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循環するマヤ暦とともに、直進するマヤ暦もありました。西暦もキリスト生誕紀元の直線の暦ですが、マヤ暦にも暦元をもつ長期暦がありました。暦元の日はユリウス暦に直すとBC3114年9月6日となります(2日ずらして8日という説もあります)。グレゴリオ暦に換算するとBC3114年8月11日(または13日)です。マヤの予言による「世界の終末」で話題となったのはこの長期暦のほうです。

ほぼ52年周期でめぐるカレンダー・ラウンドについては前回言及しましたが、それ以上の100年、1000年となると長期暦が便利であることは言うまでもありません。それをマヤでは20進法をつかって表示しました。20進法の原理は下から上に積みあがって表記されました。

トゥンだけは20進法にしたがっていませんが、365日の太陽暦の1年に近いところから、18で打ち切ったとかんがえられています。

長期暦で2番目に古い日付を刻むトレス・サポテス石碑には7.16.6.16.18.とあります。これは暦元の日から7×144000+16×7200+6×360+16×20+18日が経ったことを意味しています。西暦ではBC32年12月8日にあたります。ちなみに、最古の日付をもつ石碑はバクトゥンとカトゥンが部分的に欠けていますが、(7.16.)3.2.13でBC36年12月8日となります。

数の表記は点と棒によってなされます。点が1で棒が5です。位取りがキン、ウィナル、トゥン、カトゥン、バクトゥンであり、それだけでも日付を確定できたのですが、260日暦と365日暦をくわえて1日が表記されました。たとえば暦元は13.0.0.0.0ですが(0.0.0.0.0としなかったのは前の周期の最終日を表わしたからです。)、そのあとに4アハウ8クムクをつけました。なぜ4アハウ8クムクだったかは不明ですが、マヤ地域の西の人からうけついだ暦法を守ったようです。しかし、点と棒に替えて、ことに石碑では単位を示す特別な文字であらわすようになったことがひとつの変化です。

さらに、260日暦と365日暦にくわえて、夜の9神や月齢も記されることが普通となりました。夜の9神とは9日周期の暦を意味します。そして長期暦の表記を欠落させても、260日暦と365日暦と9日周期暦だけで日付を示すことがありました。そのほか、組み合わせの妙で長たらしい長期暦を使用せずにすむ方法がいろいろ考案されました。

いずれにしろ、マヤの石碑に刻まれた日付は王の即位や姫の誕生などの出来事を記すためでした。暦は日にちを知るためではなく、歴史を記すために必要だったのです。マヤには一年分の日にちを表示するようなカレンダーは存在しません。

ところで、2012年にはマヤ暦による終末がおおいに話題となりました。アメリカのパニック映画「2012」が2009年に制作され、人類滅亡の危機が2012年12月21日におとずれるという設定でした。これはマヤ長期暦の日付では13.0.0.0.0.4アハウ3カスキンであり、大周期の終わりを告げるものでした。映画の反響は大きく、マヤ暦に関する本も何冊も出版されました。しかし、何事もなくマヤ長期暦は次の新しい周期に入りました。人類滅亡説も多少くすぶってはいましたが、今では誰も気に留めていません。お騒がせなマヤ暦終末騒動があったことをどこかで石碑に刻む必要があるかもしれません。

【参考文献】
   八杉佳穂「メソアメリカ諸文明(マヤ・アステカ等)の暦」岡田芳朗ほか編
     『暦の大事典』朝倉書店、2014年、39頁-44頁。
   八杉佳穂「マヤ暦に太陽暦はあるか」『国際交流』第99号、2003年、80貢-84貢。

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日本カレンダー暦文化振興協会 理事長

中牧 弘允

国立民族学博物館名誉教授・総合研究大学院大学名誉教授。
吹田市立博物館館長。専攻は宗教人類学・経営人類学。
著書に本コラムの2年分をまとめた『ひろちか先生に学ぶこよみの学校』(つくばね舎,2015)ほか多数。

中牧弘允 Webサイト
吹田市立博物館Webサイト