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間重富(はざましげとみ)関係資料が重要文化財に

今回は山の日のルーツについて学んでみましょう! こよみの博士ひろちか先生
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大阪歴史博物館では目下、間重富(はざま・しげとみ)関係資料(654点)が重要文化財に指定されることを受けて、天文暦学関係を中心に10点あまりの主要な資料が展示されています。期間は8月29日(月)までです。間重富については本コラムの第62回(「間重富と高橋至時―寛政暦をつくった大坂人」)で紹介しましたので、今回は展示品に焦点を当てることにしましょう。

まず目をひくのは、アマチュア時代の月食観測の記録です。寛政5年(1793)7月15日の満月の晩に自前の測定装置をもちいて計10回観測した結果を図入りで報告しています。現存する重富の観測記録としては最古の部類に属します。

重富は観測機器の製作にも情熱を傾けました。明和4年(1767)、12歳の時に土蔵にこもり、木と竹で渾天儀(こんてんぎ)をつくり、人びとをおどろかせたというエピソードが残っています。また、天明5年(1785)の頃、私財を投じて天文機器の考案や製作に打ち込み、2年後にはついに天文学者・麻田剛立(あさだ・ごうりゅう)の門を叩きました(第60回コラム「渋川春海と麻田剛立」参照)。入門が高橋至時(よしとき)と相前後していたことは既述のとおりです(第62回コラム「間重富と高橋至時―寛政暦をつくった大坂人」)。

至時と重富は江戸に移り、幕府天文方で改暦に取り組み、寛政9年(1797)に寛政暦を仕上げます(暦は翌年分)。その後、重富は大坂に戻りますが、天文方からは御用測量を命ぜられます。その最初の注文書である寛政10年(1798)正月の覚(おぼえ)が展示されています。そのときは「大坂北極出地度」「二至二分太陽経緯度」「日月食」などの測量と観測が指示されています。天文方の依頼人に高橋至時も名を連ねています。

重富は測量、観測の記録のみならず、天文暦学や天文機器についてもいくつかの著作を残しています。展示資料に選ばれた『?法考』もそのひとつで、「?(き)」すなわち日時計のつくりかたについて述べたものです。文化5年(1808)の著作ですから、晩年に書いたものです。

重富は文化13年(1816)に61歳で没しますが、そのとき天文方に提出した書付の案文も陳列されています。「父五郎兵衛死去仕候段御届之書付」がそれで、息子の重新(しげよし)が届けています。そして重新が引き続き御用測量に従事しました。天文・測量がすでに家業となっていたことがわかります。

重新の記録も並んでいます。天保8年(1837)の「水星南中測量談并実測記」がそれで、水星が「チラト小明の眼二徴セし事」(光がチラッと見えた事)が記されると同時に、「テリスコップ」を用いたことにも触れています。それは展示中のイギリス製の反射式望遠鏡のことと推定されています。望遠鏡はもう1点、オランダ製の屈折式望遠鏡が並んでいます。こちらは文政6年(1823)、オランダから将軍に献上され、後に間家に貸し出されたものと伝えられています。

掉尾(とうび)を飾る展示品は「西洋人刺羅迭(ラランデ)暦書管見」です。幕府天文方の至時は享和3年(1803)、これの翻訳にあたり、死にいたる半年の間に『ラランデ暦書管見』11冊を残しました(第62回「間重富と高橋至時―寛政暦をつくった大坂人」参照)。箱入りの和綴じ本9冊は重富による写本であり、8冊が「管見」、1冊が「表用法解」です。

大阪歴史博物館の所蔵資料のほかに大阪市立中央図書館の関係資料87点も加え、総計741点が一括して「間重富関係資料」として重要文化財に指定されます。重富の没後200年にあたる今年、このような動きのあることを「速報展示」にあわせてお知らせいたします。

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日本カレンダー暦文化振興協会 理事長

中牧 弘允

国立民族学博物館名誉教授・総合研究大学院大学名誉教授。
吹田市立博物館館長。専攻は宗教人類学・経営人類学。
著書に本コラムの2年分をまとめた『ひろちか先生に学ぶこよみの学校』(つくばね舎,2015)ほか多数。

中牧弘允 Webサイト
吹田市立博物館Webサイト