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上海の月份牌-カレンダーからポスターへ

今回は「月份牌」について学んでみましょう! こよみの博士ひろちか先生
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上海には租界、つまり外国人居留地がありました。外国人はそこに居住し、交易に従事していました。19世紀のアヘン戦争後、イギリス、アメリカ、フランスがまず上海に租界をつくり、日清戦争後、その数は急増し、日本も加わりました。日本には独自の専管租界はなく、共同租界に権益をもっていました。たほう中国側にとっては、その領土と主権を侵害されたとし、民族運動の高まりのなかで返還要求がくりひろげられました。こうして中国の開港場に27カ所(専管25、共同2)あった租界は、1943年に最終的に中国に回収されました。

その上海で月份碑(げっぷんぱい)というカレンダー広告が清末から刊行されるようになりました。最古のものは1896年にさかのぼります。それは中国の太陰太陽暦と西洋のグレゴリオ暦を載せた、外国船籍の船舶会社のものでした。その背景には、外国の印刷技術の導入があります。最初は多色石版印刷、のちにオフセット印刷が普及しはじめ、カレンダー広告は一挙に脚光を浴びるようになったからです。

1897年創業の商務印書館は、上海で営業していた日本資本の修文書館を買収し、さらに日本の金港堂と合弁し、株式会社の体制を整え、急成長を遂げました。東京から技師を十数名招聘し、多色石版印刷と写真銅版印刷でカラー地図、有価証券、月份牌などの注文にこたえていたのです。とくに多色石版印刷の精巧にして華美な月份牌は中国人の眼をひきました。

日本の印刷会社も中国に進出しました。1914年に上海出張所をひらいた精版印刷株式会社はそのひとつです。精版印刷は南洋兄弟煙草有限公司の名入りで月份牌を発行しています。1915年には大手の商務印書館がオフセット印刷機をアメリカから輸入し、月份牌の多色印刷にもそれがただちに反映されました。

この頃になると月份牌はもはやカレンダーの域を越え、ポスターに華麗なる変身を遂げていました。つまり、カレンダーが載らなくとも、広告宣伝の媒体として普及していきました。広告主は煙草メーカーをはじめ、化粧品会社、製薬会社、保険会社などです。月份牌は広報戦略と販売競争の旗手となったのです。

月份牌の絵画技法は淡いカラーの炭素擦筆(さっぴつ)法に特徴があります。筆にカーボンをつけて擦り付け、白黒の下地をつくってから、水彩で何度も染めて版下をつくりました。図柄は美人画が圧倒的に多く、母子や親子を描いたものもありました。モダン女性でもあり、良妻賢母でもあることが推奨されていた時代です。しかし、他方では、健康的で魅惑的な女性も商品広告には欠かせませんでした。

その一方、故事に画題をとったものもありました。2015年の暦文協オリジナルカレンダー(10月)に採用された1930年の月份牌はそのひとつです。「木蘭従軍」の故事は、南北朝時代(5~6世紀)、病弱の父に代わって木蘭という女子が男装し、12年間異民族との戦いに従軍して、手柄を立てて帰郷するという物語です。1939年に映画化され、絵本やテレビでも人気を博しました。中国オペラ「木蘭詩編」は欧米でも演じられ、2009年には日本での上演も実現しました。いまの国家主席、習近平氏の夫人である歌手の彭麗媛さんが木蘭役を演じることがおおかったことも特筆すべきことです。

月份牌は路上の露天商でも売られるようになり、1930年代に隆盛をきわめました。しかし、租界の消滅とともにその姿を消しました。とはいえ、毛沢東時代になると、絵師とともに擦筆法は共産主義思想のプロパガンダの媒体に吸収されていきました。月份牌は死して技法を残す、といったところでしょうか。

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日本カレンダー暦文化振興協会 理事長

中牧 弘允

国立民族学博物館名誉教授・総合研究大学院大学名誉教授。
吹田市立博物館館長。専攻は宗教人類学・経営人類学。

中牧弘允 Webサイト
吹田市立博物館Webサイト