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今回は皇紀ついて学んでみましょう! こよみの博士ひろちか先生
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皇紀という紀年法

いわゆる皇紀とは神武天皇の即位を紀元とする紀年法にほかなりません。『日本書紀』によれば初代の天皇・神武は大和の橿原宮(かしはらのみや)で即位しました。辛酉の年の春正月庚辰朔の日です。これをグレゴリオ暦に換算すると、紀元前660年2月11日になります。戦前の「紀元節」、現在の「建国記念の日」が2月11日となっているのはそうした理由です。

明治政府は改暦の詔勅がだされてから6日目の明治5年11月15日(西暦1872年12月15日)、神武天皇の即位年を元年とする紀年法を制定し、「神武天皇即位紀元」と命名しました。後にそれを縮めて「神武紀元」とか「皇紀」と呼ぶようになりました。皇紀は西暦と軌を一にして導入されたのです。

津田真道の主張

これに先立ち、明治2年4月、時の刑法官権判事だった津田真道(まみち。のちに真一郎)は集議院に対し「年号ヲ廃シ一元ヲ建ツ可キノ議」を建議しています。津田は明治の改元にあたり、明・清にならった「一世一元」では改革が不十分であり、西洋のキリスト生誕紀元やイスラームのヒジュラ紀元、あるいはユダヤ教の天地開闢紀元をモデルに日本も神武天皇即位を紀元とせよと主張しました。それが改暦とセットで実現したことになります。

イラスト1
激動の時代と紀元

さらにさかのぼると、幕末の国学者たちが「神武紀元」を持ち出していました。というのも、天保11年(1840年)が神武天皇即位からちょうど2500年にあたっていることから、水戸学の藤田東湖(ふじた・とうこ)は「鳳暦二千五百春 乾坤依旧韶光新」という漢詩をつくりました。一方、津和野藩の国学者大国隆正(おおくに・たかまさ)は安政2年(1855年)に著した『本学挙要』のなかで神武天皇の即位を元年とする「中興紀元」を提唱しています。当時は開国か攘夷か、尊皇か倒幕かで大きく揺れていた時代です。

もっとも、神武天皇以来の年数をかぞえることは僧慈円の『愚管抄』でも採用されていますが、幕末にはそれが尊皇思想や王政復古と結びつき、新政府によって制度化されるようになりました。

イラスト3
改元と『一世一元』の実現

明治維新を迎えるにあたり、改元と「一世一元」が実現したわけですが、明治天皇即位紀元を制定するとしても、年号を廃して紀元一本とするのか、明治という年号と併用するのか、その場合でもどちらを主とするか、などいくつかの懸案事項は残りました。政府は明治改暦から時を隔てず、明治6(1873)年1月9日、左院に対し紀元・年号の問題を審議してもらったところ、紀元のみ使用との回答があり、おどろいた政府はあらためて併用を方針として再度下問したところ、異議無しとの回答がようやく得られたという一幕がありました。

併用前提の『皇紀』

津田は年号を廃止し、皇紀での一本化をめざしましたが、明治政府は年号と皇紀の併用を前提として、国書・条約・証書から私用にいたるまでの使用例を細かく規定しました。それによると、もっとも正式な文書には皇紀と年号を併記することとし、略式、あるいは私的な文書には年号の単独使用、もしくは月日のみの記載を可とすることになりました。皇紀は民間ではほとんど使用されることはありませんでしたが、皇紀2600年(昭和15年、西暦1940年)には国粋主義の風潮のもと、異常な高揚が見られました。ただし、これについては稿をあらためなくてはなりません。

イラスト4
隠された皇紀と事実上の基準

敗戦後は皇紀の使用はほとんどなされなくなっていますが、長期紀年法としては皇紀が今でも法制上かつ暦法上の唯一のものです。したがって、閏年の決定には依然として皇紀がもちいられれているのです。西暦のキリスト生誕紀元がわが国ではまだデジュリ・スタンダード(法制上の基準)として公認されないまま、デファクト・スタンダード(事実上の基準)として通用しているのです。「一世一元」の改元もさりながら、神武紀元すなわち皇紀も隠れた政治的問題であることを認識すべき時かもしれません。

【参考文献】
岡田芳朗『暦ものがたり』角川ソフィア文庫、2012年。
松井吉昭「改暦断行」岡田芳朗ほか編『暦の大辞典』朝倉書店、2014年。

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日本カレンダー暦文化振興協会 理事長

中牧 弘允

国立民族学博物館名誉教授・総合研究大学院大学名誉教授。
吹田市立博物館館長。専攻は宗教人類学・経営人類学。

中牧弘允 Webサイト
吹田市立博物館Webサイト

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