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今回は山の日のルーツについて学んでみましょう! こよみの博士ひろちか先生
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彼岸とは

彼岸は年2回あり、春の彼岸と秋の彼岸とよばれています。彼岸の中日(ちゅうにち)はそれぞれ春分と秋分であり、その前後3日間の「彼岸入り」から「彼岸明け」までの7日間がその期間です。春分と秋分は二十四節気に数えられますが、彼岸のほうは日本で発達した雑節のひとつです。ほかの雑節には節分、八十八夜、入梅、二百十日などがあります。

雑節とはいっても彼岸は、「国民の祝日」である春分・秋分の年中行事として、お墓参りなどにでかける重要な日です。法律ではおなじ趣旨で2度も祝日を定義できないため、春分は「自然をたたえ、生物をいつくしむ」日となり、秋分のほうは「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ」日となっています。宗教学的に言えば、春分は自然崇拝、秋分は祖先崇拝に通じているとみることもできます。しかし、春と秋の彼岸に実体的な区別はなく、仏教行事として定着していることが共通しています。

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「あの世」への信仰と彼岸の変化

仏教行事としての彼岸をみると、二つの点が指摘できます。ひとつは彼岸の彼岸たる意義として「あの世」に対する信仰があります。到彼岸と中国語に訳された梵語は波羅蜜多(はらみた)のことであり、「涅槃(ねはん)の世界に達する」という意味です。平安時代の初期、延暦25(806)年、比叡山に全国の国分寺の僧を集め、春分と秋分の日を中心に7日ずつ、金剛般若波羅蜜多経を読経させたことがあります。これは崇道天皇(早良親王)の怨霊を鎮めるために、早く彼岸への到達を祈願するものでした。この命令が出された日、桓武天皇が亡くなっています。皇太子の即位にあたり、早良親王の怨霊を鎮めるために崇道天皇という追号がなされたのでした。

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こうして始まった彼岸の法要でしたが、平安時代の末になると末法思想と浄土信仰が広がり、彼岸と念仏が強く結びつくようになりました。これが第2の特徴です。とくに大阪の四天王寺では彼岸の中日に西門(石鳥居)から海に沈む夕陽を拝んで念仏すれば極楽浄土まちがいなしといわれ、貴族と庶民を問わずたくさんの人びとが押しかけました。西門が極楽の東門と向かい合っていると信じられていたからです。

日想観と四天王寺

四天王寺のにぎわいは仏典の観想(かんそう)に由来するものでした。観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)には、浄土の情景を一心に思い凝らす観想の 方法が述べられています。その一番目が日没を見つめる「日想観(じっそうかん)」です。聖徳太子の創建と伝えられる四天王寺は上町(うえまち)台地に建ち、大阪湾を見わたす絶好の立地にあります。夕陽丘ともよばれ、日想観には最適の場所だったのです。ただし、日想観は近世以降、長らく途絶えていました。それを2001年秋に復活させ、今では年中行事の一つとして活況を呈するほどになりました。

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彼岸に通じる「日観」

日想観は「日を観ずる」修行です。そこから「日願(ひがん)」という説が生まれたのかもしれません。これはたんなる言葉遊びではなく、実は太陽信仰とでもいうべきものと深くつながっています。

近畿地方の西北部、たとえば丹後や但馬には彼岸の中日に「日迎え」といって朝は東の堂に集まり、昼には南の堂に移動し、夕方には西の堂で「日送り」をする風習があります。このような行事を「日の伴」とよぶ地方もあり、太陽の動きにあわせて移動する形式がとられています。

日本独自の仏教行事

二十四節気は太陽の運行にあわせた暦です。そのなかでも春分と秋分は彼岸という仏教行事として展開したことが日本独特のありかたです。もともとは死者を彼岸=あの世に送ったり、極楽浄土を観想したりする儀礼や修行でしたが、次第に先祖の追福を祈る行事に比重を移していきました。彼岸といえば墓参りという連想が強くなりました。しかし、暦の観点からすると、小正月などの満月の行事と結びつく太陰暦に対し、太陽暦に後発の仏教思想が取り込まれた興味ぶかい事例として考察する必要がありそうです。

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【参考文献】
高取正男『高取正男著作集5 女の歳時記』法蔵館、1982年、196-199頁。

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日本カレンダー暦文化振興協会 理事長

中牧 弘允

国立民族学博物館名誉教授・総合研究大学院大学名誉教授。
吹田市立博物館館長。専攻は宗教人類学・経営人類学。

中牧弘允 Webサイト
吹田市立博物館Webサイト

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